僕は「自己責任」という言葉が嫌いだ

 なにやら結論じみたタイトルになっていますね。まぁ、そういうことです。これ、個人の感想なので間違ってるとか、正しいとかはないです。

 

 「個人の努力次第で、最悪の結末を避けることもできるし、最良の結果を得ることもできる」と、信じている方が一定数いますね。部分を切り取って印象を操作するようで恐縮ですが、例えば「自殺は自己責任」と言った人や、「日本終わっている」って言った人を「終わっているのはお前だから」と言った人とか、或いはそのファンの方々とか。確かに、「天は自ら助けるものを助く」といいますし、「できることがある」のに何もしないで不平だけ述べているというのは確かに不健全ですね。でもね、その「できることがある」ってのが問題でして。傍から見て「できることがある」のに当事者には「もうやり尽くした」という風に見える状況ってやっぱりあると思うんですよね。

 一つはメンタルの疾患。これは、僕も経験してるから実感があるんだけど、もう建設的な選択肢ってのが見えなくなっちゃう。絶望ですよ。死ぬしかないみたいな。そこまで行かなくても、確実に視野狭窄は起こります。あともう一つは思い込み。これも選択肢を無意識に狭めます。例えば、今の現役世代の身近なロールモデルは親であることが多いと思いますが、親世代は戦後爆発的に増えた給与所得者として生計を立てて、定年まで勤め上げたわけです。すると、その子の世代に「生計を立てるには給与所得者になるしかない」とか「会社を首になったらもうやり直せない」とか「自分で商売をして暮らすなんて無理だ」といった思い込みが植え付けられるわけです。そうなると、ひどい会社に入ってしまったときに転職できないとか、端から自分で商売をするという選択肢が出てこないというわけです。そんなの、そう思い込まされているやつが馬鹿だという意見もあるでしょうか、こういう思い込みが強化されると得する人たちもいますからね。だって、会社に無条件で隷属してくれるでしょ。こういう人って。

 

 でね、僕が言いたいのはその人が馬鹿とかなんとかとか関係なく、それこそ普段自己責任論をしたり顔で説いている諸兄も「合理的な選択肢を思いつけない状態になる」ということがあり得るということなんです。それはなんでそうなるかというと、そこにはそれこそ天地開闢からの長い長いストーリーがあるわけです。人は社会とは分離された存在ではなく、社会の一部なわけで、その社会を形成する気の遠くなるような数の人(今生きている人だけでなく、過去に生きた人も含めて)が相互に作用するわけですよ。それはもうカオス的な挙動であって、一個人の行動が何か狙った結末を得るなどと言うことは叶うわけもないのです。「今日の北京で1匹の蝶が空気をかき混ぜれば、翌月のニューヨークの嵐が一変する」っていうアレですよ。そんなカオス的な挙動の果てに生み出され得るものの1つが「合理的な選択肢を思いつけない状態」というわけです。(蛇足ながら、成功者なる人もこの「カオス的な挙動」の果てに生み出されると思っています ※個人の感想です)

 

 だからね、その人の今のみを切り出して、その人の問題をすべてその人のみに帰結させるってのは、それこそ視野狭窄で乱暴なんじゃないでしょうかね。あっ、あくまで個人の感想ですよ。